使えるモノを手放すということ


まだ使えるモノを手放すのは
いまだに心が痛みます。
使えるのに、使いきれなかった
自分の見積もりの甘さを反省します。
ちゃんと使えなくてごめんね
と謝って手放す
そんなことを幾度となく繰り返しているのに
これくらいは使えるだろうと思って多めに買ったり、
これは使おうと思ってあまり考えずに買ったり。
使いきれなかったり、
上手く使いこなせなかったりします。
何度も繰り返しているうちに
モノに対する使用頻度や自分が使うかどうか
ということがわかってきます。
すると買いすぎて使いきれないという
頻度は明らかに少なくなります。
たまに、日用品が足りなくなって
慌てて買いに走ることもあります。
なくなってからでも遅くないという
便利な場所に住んでいるから
あまり備えるという気持ちにならないのです。
多すぎる方が置く場所に困り、
使い残しをした時の
残念な気持ちに向き合うことを
考えてしまうのです。
使えるモノを手放すというのは
みんな苦手です。
子どもの頃から
「モノを大切に使いなさい」
「食べ物を大切にしなさい」
と言われてきたから。
断捨離を始める前は、
モノを大切に、食べ物を大切に
というのは、
”使い切る”、”食べ切る”ことだと思っていました。
そのモノの保管の状態とか扱いについて
気持ちが至ってなかったのです。
もう腐りかけている食べ物を、
食べ切るまでは捨てられないと
食べ物を冷蔵庫や冷凍室に保管していたり。
すでに傷んでしまっている食材を
そのまま冷蔵庫の奥で保管していたり。
そんな状態のモノを食べて
自分の身体が喜ぶはずがないのに。
それでも、まだ食べられるからと
無理に食べようとしたり、調理しようとしたり。
モノもそんな形で食べてもらって
喜んでいたのだろうか…と思います。
モノにも自分の身体にも
大切にする気持ちがなかったなと思うのです。
ただ、
「もったいない」「無駄にはできない」
そんな気持ちだったような気がします。
それは、大切とはかけ離れた
ケチケチ根性だったのです。
使いきれなかった食材やモノに対して
真摯に向き合うこともなく
「使えばいいでしょ」「まだ大丈夫でしょ」
そんな態度で接していたとしたら、
それはモノに対しても失礼だったなと思います。
それはきっと、
モノだけの話ではありません。
自分の状態をきちんと見ずに、
できるだろう、使えるだろう、と
見積もりを甘くして無理をさせる。
その積み重ねは、
自分に対する扱い方にも
どこか似ている気がするのです。
”モノを大切にすることは、
自分を大切にすること。”
やましたひでこがよく言うこの言葉は、
きれいごとではなく、
日々の選択の積み重ねなのだと思います。
使い切れなかった事実から目を逸らさず、
次はどうするかを考える。
その小さな誠実さが、
「私は私をちゃんと扱っている」
という自分への信頼につながっていく。
そんなふうに、
今は感じています。







COMMENT ON FACEBOOK